昭和48年03月26日 朝の御理解



 御理解 第85節
 「女の身上、月役、妊娠、つわりに、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香要らず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒絶無し。平日のとおり。」

 何でもないような言葉で表現しておられますが、何でもないというより実に素朴な表現ですけれども、大変な難しい事だと思います。これをもし断行するというか、これを御教え通りに実行すると言う様な事は大変な勇気の要る事であり、いや神様を信じきらなければ、いや教祖様のお言葉を信じきらなければ出来る事ではない。こういう御教えを頂きますと、如何に教祖様のお言葉を頂いておるの、信じておるのというても、まあこの八十五節等にこう頂きますと、まあだまあだ信じて居るとか分かっておる様に言うておっても自分の信心が本当なものじゃないなあという感じを受ける御理解です。
 教祖様の御理解には性に関する御教というのが非常に少ない。この八十五節、又はこの八十六節の女は世界の田地であると言う事等は今の言葉でいうと胎教と言った様なことがいわれます。そう言う様なことを説いておられるし、又御教に我が力で産むと思うな、皆神の恵むところぞと言った様な教典の中からそういう様な二、三の性に関する御理解、御教というものをまあそれもそういう的なものを感じる位ですね。
 例えば腹帯をせず産前身軽くとこう、まあこの辺のところ迄はね、ここでも皆さん実行しておられる方達は沢山有ります。私の方等はみんなそうです。家内でも嫁なんかでもやっぱり腹帯をせずと言う事を実行しておりますけれども、母の乳をすぐ飲ませ頭痛血の道虫気無し、不浄毒断ちなし、平日の通りなんていう、平日の通なんて言う事はですね、例えば他の動物の例をとるとやっぱりそうなんです。
 けれども本当に例えば、これを実行するというなら大変な度胸の要る事だと思うのですけれども、今日私はそういうその信心にも一つの度胸が要るんだと言う様なことを聞いて頂きたい。ですから、本当に力を受けるというか、おかげを受けるという、その前提にはね、やはり力無しには受けられません。百斤しか持てない者に二百斤の物を下さっても結局百斤は置いて行かなければならないような道理です。
 ですから神様がここに大きなおかげを下さろうとする前には、先ず力を求められる訳です。ですから一つの信心の度胸と言った様なものがなからんとですねえ、例えばその問題なら問題をどっこいと受け止める事が出来ん。もうそれこそよろよろせんならん。信心しよってどうしてこんな事がという受け方をしなければならない。やはり信心が段々進められて来る。信心が段々力を得て来るというのですから、その段階を追ってです、信心の必ずそういう力を頂かせて頂けれる働きというものは当然有る事だと思います。
 昨日朝の御祈念に野口さんがお参りになって、娘さんの知子さんが少し陣痛が始まったから病院に参りましたからというお届けがあった。それで昨日私がここを八時に下がりますから茶の間に行きますとが八時過ぎになる訳です。これは私はいろんな特別な願いがありますと、もうこれは何処におっても祈っておるです。これはもう本当にそれこそ、寝ておっても祈っておるです。
 例えば今日こういう問題のお届けがあった。こういう難しい願いがあったという時には、いわゆる心から外れません。ですからやはりその事を祈る。まだ食事の準備が出来ておりませんでしたから、暫くあそこで初産では有りますし、そして本人には信心が無いのですし、お願いさせて頂きよりましたら、桃の花がパッと開いたところを頂いた。はあこれはおかげ頂いたなと思うた。
 思うておりましたけれども、連絡が有りません。それで私、昼奉仕の時、久富先生が奉仕してありましたから、野口さんところはまだ何も言うちゃ来んだろうかと私が申しましたら、いいえ何とも言うて来ません。実は産まれてすぐ電話がかかってきて誰かがそれを受け取ったんですねえ、それを言うて来んもんじゃから、私がお知らせ頂いたこととここへ座ってその事がもう何時間か経っとりますからね。
 もう出来とる筈じゃけれども、久富先生が座っちゃったから久富先生あのうお礼のお届けがあったかと言う事を聞かせて頂いたら、いいやまだありません、そんならまだ産まれとらんとじゃろうか。産まれとるならすぐお礼のお届けがある筈じゃがと言いよるところへ野口さんが参って見えました。そしてお届けを聞かせて頂きましたら、やはり丁度八時十五分です。女の子安産と言う事でした。もう桃の花のお知らせを下さると言う事は女の子だろうと私は思うた。
 そしたら私が頂いて居る通りに、やはり娘さんがもうそれこそ、もう本当に隣知らずの安産という安産でした。まあだとても初産だからそげな早くは出来ませんと看護婦さん達が言い切っちゃった。それでどこさんか行って病院におんなさらじゃった。それで御飯食べげに行っちゃるのを呼びに行ったりしてする程しにおかげで安産のおかげを頂いた。まあその中にも野口さん、沢山なお子さん持って自分自身も体験のあることだけれど、自分の娘の事になると。
 もう昨日お届けを聞きよりますとイライラ、モヤモヤしておられる事を随分感じられるんです。いわゆるやはりこういう時に度胸が要るなと思うんです。そんな訳でまあ本当に親の信心でおかげを頂かれて安産のおかげを頂いたんですけれども、そんなら例えば、そういう例えば私共がよいものが産みなされる時、しかもそれがそんなら安産のおかげでいきたいですね。
 例えばここにおかげならおかげが産みなされてくるなら、それに前後にです、いろんないわくがついたり問題が起こったりする様な、例えばおかげが産まれて来るじゃなくてです、もうそれこそその前後にもう本当にスキッとした、いわゆる産みなし方、おかげの現れ方をさせて頂ける程しの信心を日頃頂いておかなければならないと言う事です。それにはやはり度胸が要る。お礼を申し上げねばならん事に不平不足を思うたり、イライラしたりジガジガしよったんではやはりその前後がね。
 その安産のおかげを頂いておっても、不浄毒断ち平日の通りと言う事は難しいとしてもです、頭痛血の道虫気無しと云った様なおかげになって来ない。昨日朝の御祈念に一通りお届けが終っておるところへ、電話がかかって参りました。高芝さん所の一番下の盛昭君が電話で「親先生事故起こしました」と言う。「どげな事故じゃったか」「もう車はバラバラでこうこうです」と自動車を追越しよってから。
 丁度自転車が飛び出してきたから、それを跳ねまいとしてハンドルを切った勢いに電柱に当たって田んぼの中にひっくり返った。それで「乗っとった者はどげな風か」「私も徹ちゃんもかすり傷程度でおかげ頂いとります」と言う事だけで電話が切れた。それからすぐその後に高芝さんからお父さんから電話があった。それを私は聞かせて頂いて直接は聞きませんでしたけれども、事務所に「親先生にどうぞお礼申し上げて下さい」と言う事だけだったとこういうのです。
 私はね、そういう場合にお礼申し上げて下さいと言えれることなんです。信心はしかもお参りをして帰りよる。そして最近は朝参り夜参り、福岡からやって来る訳なんです。まあ若い者には珍しい、前の晩から御祈念を頂く為に前の晩から参って来る。二人連れでそして朝の御祈念を頂いて又それぞれの職場に帰って行くと言う様な信心をさせて頂いておるのです。しかもお参りの帰りに。
 昨年もお参りして来よってあげな事故を起こした。もう自動車が役に立たん様な事故を起こした。今度も又お参りから帰りにそういう事故を起こした。どうしたことじゃろうかという、そのはさむものが全然なかった。これはね、信心させて頂いておりますと、どういう事が起こってもです、もっとひどい事が起こっても、その前後に御神愛の中にあるな、神様のお働きの中にあるなというものが必ずあるです。
 今申します、その前後にです、頭痛血の道虫気無しと言う様なおかげがです、後にも先にも有るです。その前には例えば月役妊娠悪阻に腹痛まずと言う様なおかげが有るです。本当の事は、本当にそこに純粋に信心を頂いておかげを頂いていく。そんなら私共の家内がよい例であります。だから例えば、これはそんなら例えばよいものがお腹に宿ると言う事。そんならおかげの胤がです、例えば宿ると言う事。それを例えば十月十日というお育てを頂いて出産と言う事になるようにおかげというものは必ずそうです。
 そのおかげが宿ったらそれを大事に大事にしていくうちに、いわゆるよいおかげが生まれて来るのです。だからいよいよ産まれるという時にはやはり一つの度胸というものが要るのだと言う事です。それからすぐ若先生と井上さんがすぐ現場に、どげな風にしとるじゃろうか、若い者二人でところが英治君が一緒だったらしいのですから、もう何もかも済んで途中でこちらへ向かってやって来よるのとすり合うた。
 しかも三人ながらニコニコしながら話して来よったそうですから、はあこれはおかげ頂いとると現場まで行かずに帰って参りました。帰って来たけれども、本人達は来ていませんでしたけれども、そのまま病院に行ったらしいです。それでかすり傷ぐらいですけれども、あっちこっちばんそう膏を貼って、そしてこちらへお礼に出て来ました。そしてから泣くとですもん、おかげ頂いてから僕は事故起こしてからこげん有難かった事はなかったと盛昭さんが言うとです。
 本当にですねえ、彼達にそういう信心が出来ておったとは思われないけれども、その前後の例えばその事を思うたらです、おかげと思わなければおられなかった訳です。またそうした、そんなら朝参り夜参りさせて頂いておる修行の出来ておった時だったからそれが出来たんです。話を聞いてみると百四十からのスピード出しとった。もう話にならない。しかもそれで追越しよった。そこへ自転車が飛び出してきた。それをひくまいとハンドルを切った勢いにそして聞いてみたら後の方で電柱を折っとる。
 成程自動車はバラバラになる筈です。前の方でつっかけてからですね、電柱が折れたという話は聞いたばってん、尻振ってから電柱折っとるとじゃけん。そして田んぼに飛び込んで徹ちゃんは田んぼの中におおなかひっくり返っとる。それでびっくりした訳ですねえ。けれども実際起こしてみたところがかすり傷程度だったと。 これが自動車から飛び出したその上から自動車が落ちた。
 いうならそれだけででんおしまいですよねえ。それは話を聞くなら本当に肌に粟粒を感ずる様なことですけれども、もう「おかげ頂いた*」という頂き方。昨日、特別奉修委員の方達のすぐその後に御祈念がありましたから、その事も併せてお礼させて貰いよりましたら頂きます事が、ホウレン草の根の所を一寸ばかり切って篠のところですよねえ、それに赤い根がちょこっとばかりついておるところを頂いた。
 ホウレン草ではここが一番力になるところだと、一番滋養になるところだと、こういう時に「おかげいただいたー」で受けれると言う事が、もうそのまま力だと言う事。お参りの帰りにどうしてこんな事が起こったじゃろうかと言って、もうそこに一歩でもヨロヨロしとったらおかげは頂いても、もう力にはならん。ですから、力を受けるという時は、そん時にどっこいおかげと受けるその度胸と云うものをです、日頃養うとかにゃならんと言う事が分かる。いやあ、おかげばいと言えれること。
 丁度おまわりさんに金光様のお参りの帰りがけ「ほう、あんたどん、やっぱおかげ頂いとるとばい」とその巡査さんが言わっしゃった。別に信心のあんなさる人でもなさそうじゃったばってん、やっぱおかげと言わにゃおられん程しのものだったらしい。それからお医者さんに行ってから、実はこうじゃったと言うたら「そうら金光様のおかげばの」とお医者さんも言わっしゃったというてから話しておりましたけれどもね。
 お医者さんだってお巡りさんだって、やはりおかげと言わにゃおられない程しのやっぱりおかげを受けておると言う事。それがです、そんな私共これが日常生活の上の様々な問題であっても、信心させて頂きよって、どうしてこんな事が起こったじゃろうかと言うたら、信心はもうそれで留まっておる。もう力なんて受けられる筈はない。まあそれからようやく立ち上がってお願いに出て来ると言った様なことではです、只おかげにはなっても折角そういう素晴らしいチャンスを頂ながらです。
 次に良いものが生まれるおかげにならない、力にならない。そこで私共が如何に日頃の信心修行がです、出来ておらなければならないかと言う事が分かります。勿論そういう例えば問題又は難儀に直面した時にそれをおかげと頂く、又は相済みませんで頂くという。その後にガラスの風鈴を頂きます。中に玉が入っている。それに下に短冊がついている。風が吹けばチリンチリンと良い音色が出る筈なんです。
 ところが、その玉が下の方へずり下がっておるところを頂いた。だからいくら涼しい風が吹きよっても、良い音色は出らないというところなんです。ですから、これは私は二人に話したことですけれども、成程朝参り夜参りが出来とるから信心が出来とるごたるけれども、自分達胸に手を置いてみてごらん、ははあこげんところがずんだれるところじゃろうというところが有ろうがて、だからここんところはお詫びしなければいけない。引き上げてごらん、いわば良い音色が出るところになる。
 これは故なしに痛い思いをしなければならないなんて決して有りません。どうもせんとに叩きなさる筈は決して有りません。こらこらと言うてお気付きを下さるのですから。だから鴨居で頭を打っても「ああ痛よ」が先に出る様な事じゃいけん「すいません」と言うのが一番口に出る信心をさせて頂かなきゃならんが、そんなら日頃しっかり信心の稽古が出来とらんとです「ああ痛よ」が先に出る「すいません」それよりもっと素晴らしいのは「有難うございます」が出る様なね、信心をさせて頂いとかにゃならん。
 そういう言葉ではこんなに容易う言うておるけれども、その様に難しい御理解なんです。この八十五節はだからそれを、そんなら繰り返し繰り返しさせて頂きよるうちに、どんなに考えてもどんな場合であっても、それを疑おうにも疑う余地が無い程しにおかげと感じ取れれる信心を日頃しっかり稽古しとかにゃならんと言う事が分かります。でないと、それが徳にならん、力にならん。
 折角力を受けさせて頂くチャンスを頂ながら、只そこをしだこだで通ったんでは前後に思えば思う程おかげと思わなければおられない事がそこにハッキリしておっても、それをおかげとすら、こういう働きを受けておると言う事すら分からないで、只どうしてこういう事が起こって来るじゃろうかと言った様な事では、おかげになりません。そこが信心は、信心の稽古と言われるのはそういう事、そういう時にです、普通の者なら。
 昨日は信心研修会でした。文男先生が或教会の御信者さん方を三人、信心のない方を一人自動車に自分が乗せてお導きして来ておりました。それで見えられましてから、もう半ばでしたしからお話させて頂いて、その方達が座ったときに、私が庭に面する障子を開けさせました。そしてその庭の素晴らしいこと、石の配置の素晴らしいことを御理解に説きました。そしたらその人達が顔見合わせてからたまがるとですね。
 「あらぁ」と言わんばかりの顔をしてる訳です。そしたら文男さんも本当に後から発表しておりましたが、如何に私と親先生が交流しておる、つながっておるかと言う事を、本当に実感しましたという話をしましたがね。自動車の中でここの石庭の話をずっとして来たそうです。それは素晴らしい名人の庭師が素晴らしい石庭を出来とるという話をして来たんだそうです。それは勿論御理解じゃない。
 けれども私がここへ来た途端に先生が障子を開けてその庭を見せなさったと言う事が。だから今日は、これだけでもあなた達はおみやげになりましたね。生きた働きをそこに感じたという訳なんです。というて、私がお話をした様に、そんならこれだけの石をです、そんならここの庭に積み上げてでもみてごらん。それこそ、邪魔になってこたえん。それかというて、下手くそがいい加減に石山を作ったら。
 それこそかえって見苦しいだろう。その道の人がしかも名人といわれる人が、それこそ一分の隙の無いような配石をしおてあるからこそ、それが素晴らしく見えるように、石と言う事は心のことですよと、意志が強い意志が弱いとこういうでしょう。だから信心とは自分の心の使い方をね、据所を心の据所を教えて頂くのが信心。今迄邪魔になると思うておった難儀な問題、こげな難儀な問題は邪魔になる。
 もうこげなもんは要らんと思いよったけれども、その難儀な問題は難儀な問題ではなかった。それこそが神愛であったと感じれれる位に自分の心の使い方というものを稽古するのが信心だといった様なお話をしたんですけれども。そういう心の使い方がです、普通は出来とるようであっても、いよいよの時に本番の時にそれが使いこなせないような事では出来んのですから、日頃の信心の精進が必要だと言う事が分かります。
   どうぞ。